ゲキラン十日の会とは?糸満の民謡と踊りを継ぐ人たちの話
糸満市・新屋敷。水曜の夜になると、自治会館の蛍光灯の下で60代、70代の男たちがエークを握って踊り出す。三線が鳴る。誰かが振りを間違えて、笑いが起きる。エイサーでも組踊でもない。ゲキラン十日の会。沖縄の踊りにもいろいろな種類があるけれど、この人たちはどこにも属さず、ただ自由に楽しんでいる。

糸満に「ゲキラン十日の会」という集団がいる
「ゲキラン十日の会」という名前の由来
踊りの会よりも先に、酒の席があった。
糸満市・新屋敷地区には、約58年前から続く模合(もあい)「十日の会」がある。旧暦の十日(トゥカー)に集まっていたことが名前の由来だと言われている。仕事帰りに顔を出して、一杯飲んで帰る。その集まりが、15年ほど前に少しだけ変わった。
毎日のように集まって飲んでいるのだから、ただ飲むだけではもったいない。歌か三線でもやらないか──。すでに三線を弾いていた2人にもう1人が加わり、模合仲間のなかから歌や踊りの好きな人間が集まってきた。これが「ゲキラン十日の会」の始まりだ。
「ゲキラン」には由来がある。メンバーの一人が、かつて劇団の舞台に立っていた。だがセリフが覚えきれない。「もう無理。こんなセリフ覚えきれない」。それで劇団はやめてしまった。だったら自分たちは「劇団」ではなく「激乱」でいこう。酒を飲んで、激しく乱れる。そうして「ゲキラン十日の会」の名が生まれた。
何人で、どこで、どんな活動をしているのか
メンバーは10名ほど。多くが60代から70代で、最年長は73歳だという。新屋敷区自治会館に、毎週水曜の夜集まる。糸満ハーレーや旧暦十五夜の道ジュネー(集落を練り歩く行列)には毎年参加し、新屋敷の「まつの木通り」の清掃も20年ほど続けているそうだ。踊りだけの集まりではない。
声がかかれば舞台にも立つ。プロの琉舞家のイベントや地域の音楽イベントから依頼が来る。真面目な踊りや歌が続くと、見ている側もちょっと疲れてくる。そこにオジサンたちが入ってくると、張りつめていた空気がふっとゆるむ。真面目な舞台にこういう緩急をつけられる集団は、案外そういない。だからこの会は、あちこちから声がかかる。
初めて人前で踊ったのは、地域の行事ではなかった。模合の仲間が受け入れていた民泊がきっかけだ。本土から来た高校生たちが夕食を終えて、夜の時間を持て余している。三線で歌を聴かせてみたい、と思って弾き始めた。
全員がカチャーシーで立ち上がった夜もあれば、完全にスルーされた夜もあった。それでも、どちらでもよかった。
「一番は自分たちが楽しんで。その楽しんでる姿を見て楽しくなってくれたらいいのかなと。見せるじゃなくて、ちょっと逆なのよ。我々が楽しいわけよ一番」
見せるための踊りではない。自分たちが楽しいから踊る。糸満を元気にしたい、街を活性化したいという思いもある。でもまず先に、自分たちが楽しむ。その感覚は、15年経った今も変わっていない。

エークと扇子と三線──この人たちはなぜ踊るのか
海人の道具「エーク」が舞台の道具になる理由
糸満は海人(うみんちゅ)の街だ。毎年旧暦5月4日の糸満ハーレーで使う櫂(エーク)が、この会の舞台にも登場する。
ただし本物ではない。一度、本物を舞台に持ち出したことがある。「振り切れない。無理でした」。ハーレー用は大きくて重い。舞台で使うエークはメンバーの一人が木材から自作したもので、軽く振れるサイズに削り、装飾を施して見栄えを整えてある。
振付にはもともとハーレーで漕ぐ動きが入っている。エークを前に突き出して水をかく所作は、踊りの基本の型だ。そこに舞台ならではの遊びが加わる。2人で踊るときは、捌ける場面でわざとバックしながら漕ぎ始める。前に進みたいのに後ろに漕いでしまって、なかなか捌けない。そんな小芝居で、見ている人をくすりとさせる。

エークで踊る演目はどれか?──道具と曲の組み合わせ
エークを手に踊るのは「いちまんあんぐゎー」と「海の幸(海ヤカラー)」の2曲。扇子を使うのは「四季口説(しきくどぅち)」だけ。それ以外の演目は道具を持たずに踊る。
瓶踊りは、頭に酒瓶を載せたまま踊る演目だ。ただ載せて歩くだけではない。載せたまま体を回しても、しゃがんでも落とさない。ときには観客を舞台に引っ張り上げて、一緒に巻き込んでしまう。そしてクライマックスに待っているのが「逆瓶」という仕掛けだ。何が起きるかは、ぜひ舞台で確かめてほしい。

メンバーが語る「なぜ続けているのか」
なぜ、この人たちは続けているのか。聞いてみると、理由は驚くほどばらばらだった。
メンバーの一人、名嘉真英樹さんは、もともと古典の三線をやっていた。新人賞も取っている。でも地謡は後ろに座って弾く役回りだ。「三線はあくまでも目立たないから。いかにして目立つか」。弾いているうちに、自分も前で踊りたくなった。一人で踊るのと、みんなで踊るのは違う。初舞台のことを聞くと、緊張よりも「とにかく楽しかった」と返ってくる。
逆に、目立ちたくない人もいる。上原薫さんは「もうバックダンサーとしか思ってない。いかに後ろで踊ろうか」と笑う。定年して時間ができて、誘われて入って、気づけば水曜の夜が1週間に1回の楽しみになった。
前に出たい人と、後ろに隠れたい人。同じ踊りを15年やっていても、向いている方向はばらばらだ。もちろん本番に向けて、角度も足の運びも揃えようと練習はする。それでも完璧に揃いきることはない。でも、それでいい。揃えることそのものより、自分たちが楽しんでいることのほうが先にある。
その水曜の夜には、もう一つの楽しみがある。おつまみ当番だ。メンバーが交代で、手作りの料理を持ち寄る。何を作るかの基準はいたってシンプルで、「お酒を美味しく飲みたいから」。その一心なのだという。
舞台でも酒は入る。踊って、飲んで、また踊る。本番が終わると、毎回ダメ出しが始まる。「練習したのに、なんでできないの」「俺じゃないよ」。誰かは必ず間違える。でも客に喜ばれた日は「今日はウケたよね」と笑い合う。
楽しそうに見えるし、実際に楽しい。ただ、その「今を楽しむ」には、この人たちなりの理由がある。
「われわれに明日はない」。この会にはこんなスローガンがある。最初に言い出したのはメンバーの一人だ。一見、物騒な言葉だ。でもメンバーに聞くと、その意味は切実だった。
体調を崩している人がいる。怪我をした人もいる。酒を飲んで怪我をした人もいる。いつ踊れなくなるか、いつメンバーと過ごせなくなるか分からない。だからこそ、今を楽しむ。
「明日はどうなるか分からんから、今楽しもう。踊りもお酒も、みんなで今を楽しもう」
毎日ではなく、その瞬間を生きる。エークを振って、合わない千手観音で笑って、当番のつまみで一杯やる。その水曜の夜が、明日をあてにしない人たちの、今日のすべてだ。


十日の会が継ぐ演目──沖縄の民謡と踊りの種類
レパートリーは全9曲。いちまんあんぐゎー、海の幸(海ヤカラー)、海のチンボーラー、豊年音頭、国頭サバクイ、繁昌節、瓶踊り、四季口説、上り口説。最初は糸満の海や暮らしに関わる歌が中心だったが、やっているうちに「これも楽しそうだ」という歌が増えていった。八重山の祝い歌である繁昌節は、振付の先生が「テンポがいいから」と持ってきた。四季口説も、糸満にも海にも関係ないけれど、面白そうだからと取り入れた。選曲の基準は格式ではなく「やりたいか、やりたくないか」だ。
ぬぶいくどぅち(上り口説)──首里から薩摩への旅を歌う口説
上り口説は、琉球王府の役人が首里から薩摩へ向かう道中を歌った古典音楽だ。七五調の口説形式で、歌詞には実在の地名が次々と現れる。観音堂から大道、崇元寺、美栄地高橋、三重城(みーぐすく)、残波岬。首里を出て海を渡り、薩摩の桜島にたどり着くまでの旅路が、一曲のなかに刻まれている。
この会にとって、この歌はただのレパートリーの一つではない。歌詞に出てくる場所を、実際に訪ねたことがあるからだ。
「歌の現場を旅する」──十日の会が伝承地を訪ねた話
会が生まれて間もないころ、まだ踊りもおぼつかない時期に、メンバー3人で上り口説の歌詞をたどる旅に出たという。首里の観音堂から始まり、崇元寺を抜け、歌に出てくる場所を順にたどっていく。
歌は観音堂から始まる。そして上原稔さんは、30代のころから毎年その一帯の拝所を巡ってきた人だった。沖縄の拝みの風習のなかで育ち、年に一度、首里の七カ所ほどを回っていた。歌のはじまりの場所と、自分がずっと手を合わせてきた場所が、そこで重なった。
歩いてみると、歌詞が実景と結びつく瞬間があった。奥武山(おうのやま)も三重城も、今は陸続きだが、昔は離れ島のような地形だった。小さな船で何日もかけて進むという歌の世界が、地形を目にして初めて腑に落ちる。なかでも三重城が一番響いたと、稔さんは言う。かつて薩摩へ向かう船を、人々が高台から見送った場所だ。
「みーぐすくで送る、っていうあれは、本当に」
帰ってくるか分からない人を、高台から見送る。当時の船旅は、一年か二年、生きて帰れるかも分からないものだった。異国へ貢物を携えて行き、受け入れられるかどうかも分からない。その心細さが、現地に立って初めて分かった。歌が、遠い昔の話ではなくなった瞬間だ。
旅は、陸の上だけではなかった。薩摩へ向かうフェリーのなかでも、歌は続く。歌詞には「七島灘(しちとうなだ)」という海の難所が出てくる。船がその海域にさしかかるのが、夜中の二時。上原正夫さんは、その時間にわざわざ起きてデッキに出た。歌の場所を、歌のとおりに通る。そこで三線を鳴らし、歌った。
同じ旅をしても、残るものは3人それぞれで違う。西平さんは「もっと練習してから行けばよかった」と振り返る。まだかぎやで風くらいしか踊れない時期だったからだ。稔さんは、意味が分かった今だからこそ「正装して、踊りもつけて、もう一度やりたい」と言う。そして正夫さんにとって、あの旅はすでに完結している。もう一度行きたいかと聞くと「思わない」と即答した。無計画で、筋書きもなく、その場その場で決めて進んだ旅。振り返れば、人生の夢がひとつ叶ったようなものだった、と。
受け止め方は違っても、共通していることがある。意味を分かって踊るのと、分からずに踊るのは違う、ということ。歌の現場を歩いたあの旅が、今の踊りの底に静かに流れている。
四季口説(しきくどぅち)──季節を巡るもうひとつの口説
四季口説は、春夏秋冬の情景を詠み込んだ踊り。両手に扇子を持ち、囃子を唱えながら舞う。琉舞の道場では若い踊り手が正統な型で踊る演目だ。
この会がこの踊りを覚えたのは、道場ではなくYouTubeだった。お手本はプロの踊り手ではない。動画のなかの小学生の女の子だ。
「この小学生の女の子のこれに統一しようって言って、この子の踊りを勉強してやってる。感謝したいわけ本当、この子に」
70代の男たちの師匠が、YouTubeの小学生。ここまではまだ真面目な話だ。
問題はその先にあった。小学生のお手本どおりに踊ると、きちんとしている。きちんとしすぎている。おじさんたちがそれをそのまま真似ても、何も起きない。
「ただただ普通に真面目に踊ると何んも面白くないわけよ」
そこで入れたのが「千手観音」だった。四季口説は4番まであって、メンバーそれぞれに持ち分がある。8人が横に並んで、扇子を順に広げていく。本当は全員の扇子がきれいに揃って開けば見栄えがいい。でも、揃わない。どうやっても揃わない。そこで開き直った。
「みんな違うんだからいいじゃない。それが千手観音でしょう」
8人が8人ともバラバラだからこそ、かえって千手観音みたいに見える。揃わないことを、そのまま演目の名前にしてしまった。観客にも「合ったらダメなんだね」と受け入れられた。
YouTubeの小学生を手本にして、揃わないことを千手観音と言い張る。生真面目にやらず、面白い方へ転がしていく。その転がし方が、この会らしさなのだと思う。

いちまんあんぐゎー──糸満の娘たちを歌った唄
いちまんあんぐゎーは、海の幸を売り歩く糸満の娘たち、「おかぁたち」の姿を描いた創作舞踊だ。旦那が漁に出て捕ってきた魚を、おかぁがバーキ(竹かご)に入れて那覇の街ぐゎーまで売りに行く。住宅街を歩きながら「いーゆーわぁ、こいんちょーらに(良い魚、買わないね)」と声をかける。呼ばれた家の人が「はいはいはい」と出てくる。
歌詞は固い首里語ではなく庶民の言葉で書かれていて、文字数が自由だ。状況に応じて伸びたり縮んだりする。そのリズムの自由さが、踊りの躍動感をつくっている。
この歌を踊るとき、メンバーたちには昔の糸満の景色が重なる。
「あの状況が分かるから、踊りやすい」
知らない土地の歌ではない。自分たちのおかぁが歩いていた道の歌だ。バーキに魚を入れて住宅街を歩く姿を見て育った人たちが、その記憶ごと踊っている。

くんじゃんさばくい(国頭サバクイ)──首里城を建てるために木を運んだ歌
国頭サバクイは、首里城を建設するためにやんばる(国頭)から木を切り出して首里まで運ぶ道中を踊った歌だ。新屋敷では50年以上前から誰かが見てきて広め、少しずつ形を変えながら踊り継がれてきた。
この会にとって、この曲はトリだ。踊り自体は派手なものではない。でも一番最後に、観客をワーッと驚かせる仕掛けがある。十五夜の道ジュネーでは沿道の観客にシカまして(脅かして)、小さな子どもが泣き出す。3歳4歳の子はもうウワーッとなる。それを見て大人が笑う。ただ見ているだけだった人たちが、一瞬で巻き込まれる。その一体感で、舞台は幕を閉じる。

十日の会の踊りはどこで見られるのか
過去の出演実績と今後の公演予定
糸満ハーレー、旧暦十五夜の道ジュネー、地域のイベントや同窓会の舞台。定期公演はない。声がかかれば出る。糸満警察署の祝賀会や地域の感謝祭、結婚式の余興、糸満いとまーるのあじまマ市、とぅばらーま糸満大会、NHK「うちなーの歌と踊り」への出演など、舞台は多岐にわたるとされる。過去には糸満の「ふるさと祭り」で模合メンバー30人ほどが全員舞台に立ったこともあるという。生歌の歌手が来て、全員で踊った。
活動の様子は、YouTubeでも公開されている。
ゲキラン十日の会 – YouTube
水曜の夜に新屋敷の自治会館を覗けば、三線の音が聴こえてくる。そこでは60代70代のおじさんたちが、酒を酌み交わし、エークを振っている。ガイドブックには載っていない、そういう夜が糸満にはある。

筆者:teruya
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