2026.04.29

沖縄の防災を変えた男|古我知進の39年の消防人生と糸満市・西崎ニュータウンの挑戦

西崎ニュータウン自治会集会所の前に立つ古我知進さん。自主防災会の防災ベストと帽子を着用

目次


南海トラフ地震の発生確率は今後30年以内に約80%。沖縄も津波のリスクから逃れられない。にもかかわらず、沖縄の自主防災組織率は47都道府県で最下位の42.4%——。

その沖縄に、「行政の消防だけでは、人の命を守りきれない」と気づき、退職後の人生を地域防災に捧げた一人の元消防士がいる。

古我知進。那覇市消防局で39年間、救急隊員として約40,000人の患者を搬送してきた。糸満市初の自主防災組織を立ち上げ、総務大臣賞、内閣総理大臣表彰、防災士功労賞、瑞宝双光章と、数々の栄誉を重ねてきた。その歩みが証明するのは、一人の決断が街全体の防災意識を変えうるという事実である。

海抜3.2メートルの糸満市・西崎ニュータウンから始まった、「自分の地域は自分で守る」という挑戦の記録である。


那覇市消防局39年|古我知進の原点

消防士になった理由——救急の現場で見てきたもの

古我知進が消防士を志した理由は、シンプルだった。「人助け」。それも、目の前で倒れた人の命を救う救急活動に惹かれたのだという。

那覇市消防局に入局すると、古我知さんはキャリアの大半を救急隊員として過ごすことになる。救急車に乗務した期間は約30年。搬送した患者は、およそ40,000人にのぼる。その中には心肺停止状態の患者が約700名含まれていた。そして、実際に蘇生させることができたのは、わずか12名。古我知さんは悔しそうな表情を浮かべながら、静かに正確に語った。

路上で、タクシーの中で——救急の現場で忘れられない瞬間

39年間の消防人生で最も印象に残っている現場を問うと、古我知さんは「たくさんありすぎて分かりません」と前置きしたうえで、出産の現場を挙げた。

自宅、タクシーの中、バスの車内、歩道の上——病院に間に合わない状況で、臍帯クリップを使い、へその緒を切って搬送したことが何度もあったという。中でも忘れられないのは、骨盤位分娩に遭遇した1件だ。通常は頭から出てくる赤ちゃんが足から先に出てきた。窒息の危険が極めて高く、一刻を争う。「もう本当に緊急を要しました」。すぐに病院へ搬送したが、何十年経ってもあの緊張は薄れないと古我知さんは語る。

こうした対応は突発的な判断ではない。「母子を安全に病院へ搬送できない状態」という明確な条件のもとで行われるもので、消防士は日頃から研修で備えている。それでも、現場では一瞬の判断が命を分ける。

39年間で変わった沖縄の防災意識、変わらなかった課題

39年という時間の中で、沖縄の救急現場にも変化はあった。古我知さんが特に大きな転換点として挙げるのが、AED(自動体外式除細動器)の普及だ。

「10年ぐらい前、除細動器を設置したときからですね。要請した人たちが心肺蘇生をする、通りかかりの人たちが心肺蘇生をするというのがずっと増えました」

かつては、救急車が到着するまでの間、倒れた人のそばで家族や周囲の人が何もできずにいることが当たり前だった。「触らんけー、動かさんけー」——そんな空気が現場を支配していた時代がある。AEDの設置と応急手当の啓発が少しずつ浸透し、バイスタンダーCPR(その場に居合わせた人による心肺蘇生)の実施率は確実に上がった。

しかし、変わらなかったものもある。それは、沖縄全体の防災意識の低さだ。古我知さんは「震災の経験がない」という一言で、その根本原因を言い当てる。八重山地方の歴史的な地震を除けば、沖縄本島では大規模な震災被害の記憶がほとんどない。台風には慣れていても、地震や津波への備えは「自分ごと」になりにくい。この構造的な意識の壁は、39年間変わらなかったと古我知さんは語る。

「行政の消防だけでは限界がある」と感じた瞬間

命を救うタイムライン図解。心肺停止から3分以内のバイスタンダーCPRの有無が生死を分ける

救急隊員として現場に駆けつけるたびに、古我知さんが痛感していたことがある。「この人たちが、もう少し応急手当をしておれば、助かったんじゃないか」という悔しさだ。

心肺停止状態の患者にとって、勝負は3分以内。救急車が119番を受けてから現場に到着するまで、平均で10分前後かかる。その空白の時間に、家族や居合わせた人が人工呼吸や心臓マッサージをしているかどうかで、生死が分かれる。しかし当時の沖縄では、パニック状態のまま何もできず、患者をそのまま放置してしまう事例が数多くあった。

「3分すぎるとですね、もし蘇生させても後遺症が残ってる状態で蘇生させる事例がありますので」

蘇生はできた。けれど、その人が元の生活に戻れるかどうかは、別の問題だ。古我知さんは約40,000人を搬送するなかで、何度もこの壁にぶつかってきた。行政の消防がどれほど迅速に動いても、現場に一番近いのは住民自身——。この実感こそが、のちに自主防災組織の設立へ踏み出す原点となった。


沖縄の地域防災の課題|なぜ自主防災組織が広がらなかったのか

沖縄の自主防災組織率が全国最低水準である理由

沖縄の防災を語るうえで避けて通れないデータがある。自主防災組織の組織率だ。

令和6年4月1日現在の総務省消防庁のデータによると、全国の自主防災組織のカバー率は85.4%。一方、沖縄県はわずか42.4%で、47都道府県中最下位だ。古我知さんは、この数字の背景にある最大の要因を「震災の経験がないこと」だと断言する。

阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震——本土では大規模な震災を経験するたびに、自主防災組織の結成が加速してきた。「自分たちの地域は自分たちで守るしかない」という意識が、被災の痛みとともに地域に根づいていった。しかし沖縄本島では、少なくとも近代以降、そうした経験が圧倒的に少ない。「だから、自主防災の立ち上げというのがなかなか少なくて」と古我知さんは語る。経験しなかったからこそ備えない。その構造が、沖縄の地域防災の出発点にある。

「台風慣れ」と「うちは大丈夫」が生む油断の正体

沖縄の人々は台風には慣れている。毎年のように直撃を受け、停電や断水を経験し、やり過ごしてきた。しかし古我知さんは、この「慣れ」が防災意識全体を鈍らせていると指摘する。

台風を乗り越えてきた経験は、「沖縄は大丈夫」「うちは大丈夫」という楽観に転化しやすい。津波や地震といった、台風とは質の異なる災害に対しても、同じ感覚で構えてしまう。自主防災組織の必要性を説いても、「なんぞや」という反応が返ってくることは珍しくなかった。

古我知さん自身もかつてはその一人だった。「私自身が知りませんでしたから。自主防災組織っていうのはね」。消防局に39年勤めた人間ですら知らなかった。一般の住民にとって、それは完全に未知の概念だった。西崎ニュータウンで自主防災組織が立ち上がったのは2008年。その約3年後に東日本大震災が起きると、住民の反応は明確に変わった。「自主防災会を立ち上げて良かった」という住民の声が、それを物語っている。

もう一つ、古我知さんが指摘するのは、隣保精神の希薄化だ。近所同士で助け合う意識のことである。かつての沖縄には、模合や自治会行事を通じた濃い地域のつながりがあった。しかしその結びつきが薄れるにつれ、「隣に誰が住んでいるか分からない」という状態が広がっている。自主防災組織率の低さは、単に災害経験がないだけでなく、助け合いの土台そのものが揺らいでいることの表れでもある。

埋立地・低地帯に暮らすリスク——沖縄だからこそ必要な地域防災

糸満市・西崎地区は埋め立てによって造成された市街地だ。海抜はわずか3.2メートル。海に面し、津波や高潮のリスクを常に抱えている。さらに、西崎ニュータウンでは65歳以上の住民が50%を超える高齢化が進んでいる。

潮平高層住宅から見下ろした西崎ニュータウンの街並み。低層住宅が広がり、奥に海と橋が見える
潮平高層住宅から見た西崎ニュータウン。海抜3.2メートルの埋立地に住宅が広がる。

糸満市が指定する避難場所は「潮平高層住宅」だが、西崎ニュータウンから徒歩で約9分かかる。高齢者にとって、この距離と時間は致命的だ。さらに途中には橋があり、川を渡る必要がある。津波発生時にはこのルート自体が使えなくなる可能性もある。

糸満市指定避難場所の潮平高層住宅。10階建て以上の大規模な集合住宅
糸満市が指定する避難場所・潮平高層住宅。西崎ニュータウンから徒歩約9分の距離にある

「じゃあ我々どうするか」。古我知さんが出した答えは、近隣の民間アパートと独自に避難協定を結ぶことだった。6階建てのアパートのオーナーに交渉し、災害時に高齢者30名程度を受け入れてもらえる体制を整えた。

古我知さんが避難協定を結んだ民間の共同住宅。手前には津波避難場所の標識が立つ
独自に避難協定を結んだ民間の共同住宅。指定避難場所の潮平高層住宅より西崎ニュータウンに近く、高齢者が避難しやすい
西崎ニュータウン自治会自主防災会が民間と締結した2つの協定書
2つの協定書。右が近隣の共同住宅との避難場所使用協定(2015年3月締結)、左がファミリーマート糸満西崎3丁目店との災害時物資供給協定(2019年2月締結)

行政の避難計画に頼るだけでなく、自分たちの足で届く範囲に「逃げ場所」を確保する。この発想こそが、沖縄の地域防災に欠けていたピースだったのだ。

本土の防災と沖縄の防災はどこが違うのか

「沖縄は、幸いにして立体の建物が多い」——古我知さんは本土との違いをこう語る。

本土の住宅地、特に平坦な地域では低層の住宅が広がり、津波や洪水の際に垂直避難できる建物が少ないケースがある。一方、沖縄ではコンクリート造のアパートやマンションが住宅地の中に点在しているため、「逃げ場所が多い」という利点がある。

しかし、その利点を活かしきれていないのも沖縄の現実だ。過去に避難指示が出た際、西崎地区では車による渋滞が発生し、現場に到着するまで何時間もかかった住民がいた。

避難経路上の橋に立つ古我知進さん。橋の下には川が流れている。
西崎ニュータウンから指定避難場所へ向かう途中にある橋。津波発生時にはこのルートが使えなくなる可能性がある

東日本大震災では、近くにビルがあるにもかかわらず車の中で亡くなった人が多数いたという事実を、古我知さんは繰り返し住民に伝えている。建物があっても、訓練なしには人は動けない。車を置いて近くのビルに駆け込む判断——それは、日頃の訓練で身体に覚えさせるしかないのだ。


退職後の決断|糸満市初の自主防災組織を作った男

なぜ退職後に自主防災組織を立ち上げようと思ったのか

古我知さんが自主防災組織という存在を初めて知ったのは、意外にも消防士として現役だった55歳のときだった。

きっかけは、糸満市消防本部から糸満市役所に出向していた職員からの一言だった。「自主防災を立ち上げるから、是非とも参加してくれよ」。消防局で39年のキャリアを積んだ古我知さんですら、自主防災組織がどういうものか、まったく知らなかったという。「どんなもんかっていうのが全く知らなかったんですね。で、やってみたら奥が深い」。

退職を待って構想を練ったわけではない。現役時代に声をかけられ、そのまま足を踏み入れた。そして西崎ニュータウンの海抜が3.2メートルしかないことも、このとき初めて知った。「あの時声をかけられていなければ、自主防災なんて何も知らないまま過ごしていた」。知らなかったからこそ、知った瞬間に動いた。

自主防災組織を立ち上げたのは2008年、東日本大震災の約3年前のことだ。あの震災の後、住民から「立ち上げてあって良かった」という声がアンケートにも表れた。それまで「なんぞや」だった自主防災は、震災を機に「やっぱり必要だった」という実感へと変わっていった。

糸満市・西崎ニュータウンを選んだ理由

なぜ西崎ニュータウンだったのか。理由は明快だ。海抜3.2メートル、海に近い——つまり、危険性が高い地域だからこそ、消防の経験者が立ち上げるべきだという判断だった。

出向職員から声をかけられた時点で、糸満市には自主防災組織が1つも存在していなかった。糸満市内には74の自治会があるが、どこにも防災の自主組織はない。その中で、地理的リスクの高い西崎ニュータウンに、消防のプロとしての経験を活かせる古我知さんが入る——自然な流れだった。

ただし、高齢化率の高さや避難場所までの距離といった課題は、立ち上げ後に見えてきたものだ。「後からですね。避難場所を決める時に、歩いて9分かかるもんだから、その当時から高齢者が多かったんで、じゃあどうしようかと」。課題が先にあって組織を作ったのではなく、組織を作ったことで課題が可視化された。そこから民間アパートとの避難協定という独自の解決策が生まれていく。

住民を巻き込むまでに直面した壁と越え方

自主防災組織を立ち上げても、住民の全員が動くわけではない。古我知さんが「これは絶対無理だな」と感じた瞬間は、訓練に参加しない住民の存在に向き合ったときだった。

「出席する人たちはいいんです。じゃあ出席しない人たちはどうするか」。避難場所を知っていても、訓練に来ない。高齢で外に出られない。大きな災害が起きたとき、この人たちをどう避難させるのか——明確な答えはない。「来ない人は来ない。これがちょっと困ってますね」。古我知さんは正直に語る。

この壁に対して、古我知さんがとったアプローチは意外なものだった。訓練の話になると、古我知さんの表情が変わる。まるで遠足前の子どものように、「次はこれをやるんだ」という高揚感がにじみ出る。防災訓練を義務感や使命感だけで続けているのではない。住民と関わること、子どもと触れ合うこと、新しい工夫を試すこと——そのひとつひとつを楽しんでいる人なのだ。

その「楽しさ」が、そのまま訓練の形になった。避難訓練だけで終わらせず、その後に炊き出しやバーベキューを組み合わせる。200食、300食のカレーを大鍋と薪で作る。これも立派な炊き出し訓練であり、同時に「終わった後の楽しみ」でもある。

西崎ニュータウン自治会自主防災会の備蓄倉庫。左側に救助資機材、右側に炊き出し用の大鍋や煮炊き釜が収められている
約400万円分の防災資機材を収めた備蓄倉庫。すべて補助金と助成金で揃えた。左に車いすやロープなどの救助道具、右に炊き出し用の煮炊き釜と大鍋

子どもの参加も重要な鍵だ。水消火器を使った消火訓練では、火を模したプラスチック製の的を手作りし、水を当てると倒れる仕掛けを用意した。毛布と竹の棒で担架を作る体験、ロープの結び方——子どもが楽しめるプログラムを工夫することで、親も自然とついてくる。「子供が参加すれば自ずから親も参加する。親が参加すれば、『こういった訓練だったんだな』と理解して、また次も参加する」。好循環が回り始めた。

さらに、前半はクリスマスパーティーと組み合わせた子ども向けの訓練、後半は65歳以上の高齢者に絞った訓練と、ターゲットを分けた年2回の開催も定着させた。結果として、西崎ニュータウンでは住民の90%以上が避難場所を把握しているというアンケート結果が出ている。結成から18年、繰り返しの訓練と行事が積み上げた数字だ。

夜間避難訓練の様子。懐中電灯を持った住民たちが暗闇の中を歩いている
全国的にも珍しい夜間避難訓練。参加者からは『懐中電灯のありがたみが分かった』と好評だった

最初に住民へ声をかけたときの反応

立ち上げ当初、住民の反応は「ポカーン」だった。古我知さん自身がそうだったように、自主防災組織という言葉自体が沖縄では馴染みのない概念だった。家族でさえ、何をしようとしているのか理解していなかった。

「私自身が知りませんでしたから。家族も全く知りません。西崎ニュータウンの自治会の皆さんも全く知らないです」

古我知さんは住民に必要性を伝えようと、阪神・淡路大震災を例に説明した。しかし、響かなかった。「阪神淡路で説明しても、全く分からない」。沖縄から遠い場所の、自分たちが経験していない災害。どれだけ正しいことを言っても、実感のない相手には届かない。この「伝わらない」壁は、古我知さんにとって最も苦しい時期だったはずだ。

転機になったのは、東日本大震災だった。あの震災の後、「ああ、こういうものだったんだね」と住民の理解が一気に進んだ。古我知さんは阪神・淡路大震災の際、被災地で経験者から直接話を聞いている。「もう少しノコギリとかハンマーとか、ジャッキとかあれば、もっと多くの人を助けられたんじゃないか」——この言葉が、防災資機材を地域に整備するという発想の原点になっている。


沖縄で活躍する防災士という存在

防災士の資格が地域防災の活動にもたらしたもの

古我知さんが防災士の資格を取得したのは2016年のことだ。那覇市消防局で39年間のキャリアを持つ人間が、なぜ改めて民間の資格を取るのか。答えは一言、「スキルアップ」だった。

「じゃあこういった時はどうするんかということで、まだ色んなもんがありましたので」。消防のプロとしての経験は豊富でも、自主防災組織の運営は別ものだ。避難訓練の設計、炊き出し訓練の段取り、住民への指導方法。どれも消防業務とは異なる技術と知識を必要とする。防災士の研修を通じて、活動の幅を体系的に広げることが目的だった。

資格取得がもたらした変化は、まず「説得力」だった。「指導の方法が違ってくる。説得力がある」と古我知さんは語る。現在、西崎ニュータウンには古我知さんを含めて3名の防災士がいる。全国では約34万7,000人、沖縄県内では2,133名、糸満市では當銘真栄市長をはじめ93名が防災士の認定を受けている。

ただし、古我知さんは防災士制度の課題にも触れる。全国34万7,000人のうち、自主防災組織に所属して実際に活動している防災士はごく一部だ。資格を取っても、活動する場がない——この問題は日本全国で起きている。糸満市内でも、16カ所の自主防災組織に所属する防災士は34名だが、残りは活動の場を持てていない。古我知さんは現在、「糸満市防災士協議会」の設立に向けて糸満市と協議を始めている。資格を持つ人が実際に地域で力を発揮できる仕組みづくりが、次の課題だ。

防災講演・消防学校研修・地域の訓練指導——「教える活動」の広がり

古我知さんの活動は、西崎ニュータウンの枠にとどまらない。これまでに行った防災講習は134回以上、指導した人数は約9,500人以上にのぼる。講習の内容は応急手当や救命処置にとどまらず、子どもに対する応急処置、水難事故への対応、微出血の処置まで、自身の救急隊員としての実体験をベースにした実践的な内容だ。

教える活動の中でも特筆すべきは、沖縄県消防学校の初任科学生(採用されたばかりの新人消防士)の受け入れだ。8年前から毎年、約70名の初任科学生を西崎ニュータウンに迎え、集会所で炊き出し訓練を行いながら自主防災の意義を伝えている。

沖縄県消防学校の初任科学生に講演する古我知進さん。スクリーンには西崎ニュータウンの航空写真が映し出されている
毎年約70名の初任科学生を受け入れ、自主防災の意義を伝える。

「初任科の学生たちは全く自主防災というのを知らないです。私もそうだったんです」

古我知さんが消防学校の初任科学生に伝えたいのは、大きく3つだ。1つ目は、自主防災組織というものの存在そのもの。2つ目は、各消防本部に配属された後、地域の自主防災組織を支援・協力してほしいということ。3つ目は、大規模災害時には消防車も救急車も来られない現実があるということだ。

糸満市消防本部を例にとれば、大きな災害が発生した場合に出動できるのは、ポンプ車に4名、救助工作車に4名、救急車に3名。これが1台ずつしかない。市内のあちこちで同時に被害が出れば、西崎ニュータウンに消防が到着することは期待できない。だからこそ、住民自身が資機材を使って救助できるよう、日頃から訓練しておく必要がある。「公助のプロ」である消防職員が「共助」の仕組みを理解し、地域に広めていく——古我知さんが8年かけて築いてきた循環は、沖縄全体の防災力の底上げを静かに支えている。

消防学校の初任科学生に一番伝えたいこと

「自分の命は自分で守る、自分たちの地域は自分たちでしっかり守る——その手助けをしていただきたい」

古我知さんが消防学校の初任科学生に最も伝えたいのは、この一点に尽きる。消防士としての技術や知識は消防学校で学べる。しかし、自主防災組織の存在や意義は、カリキュラムに組み込まれていない知識だ。

研修では、パワーポイントの資料を使い、自主防災組織の法的根拠から防災資機材の整備方法まで、約1時間かけて丁寧に説明する。消防法にも自主防災の規定は存在するが、「なかなかそこまで目を通さない」のが実情だと古我知さんは言う。だからこそ、現場を知る先輩が直接語る意味がある。

「皆さんの方が我々よりも上ですよ。沖縄は自主防災組織率が全国で一番低い。その一番低いところで当たり前のことをやっただけで、この賞をもらったんですよ」。全国トップクラスの賞を受けた組織のリーダーが、本土からの視察者にこう言い切る。自虐ではなく、沖縄の防災の現在地を正確に見つめたうえでの言葉だ。だからこそ、一歩ずつ積み上げてきたことのすべてに意味がある。

研修を受けた初任科学生の一人は、古我知さんの第一印象をこう語る。「正直、もっと厳しくて気難しい人だろうと思っていました。でも実際は柔らかいんですよ。ああいう人の方が、みんなついてきてくれる。話しやすくて相談しやすい人の方が、周りも協力しようってなるんだなって」。39年間現場に立ち続けた元消防士は、威圧ではなく親しみで人を動かす人だった。

その新人は、研修で初めて自主防災というものに触れた。「正直、こういうのがあるって分からなくて。もっと大きな施設に資機材がいっぱいあるのかなとイメージしていたけど、意外とどこでもできることなんだねって思った」。特別な設備ではなく、続ける工夫こそが防災なのだと、現場に出る前の若者が気づく。「自分の地域は自分で守るって、あんまり考えたことがなかった。でも今日の話を聞いて、大事だなと思った。その備えが、結局は自分の身を守るんだって」。古我知さんが8年間伝え続けてきたものは、確かに次の世代へ手渡されている。

西崎ニュータウン自治会自主防災会の備蓄倉庫前に並ぶ、沖縄県消防学校の初任科学生たちと古我知進さん
研修を終えた初任科学生たちと古我知さん。県内各地の消防本部から集まり、ここで自主防災を学ぶ

数々の受賞が証明する「地域を守る仕事」の価値

西崎ニュータウン自治会集会所に並べられた数々の表彰状と受賞盾。市功労表彰状、瑞宝双光章、防災士功労賞、内閣総理大臣表彰状・盾、総務大臣賞が一列に並ぶ
取材の場に並べられた受賞の記録。左から市功労表彰状、瑞宝双光章、防災士功労賞、内閣総理大臣表彰、総務大臣賞

防災まちづくり大賞・総務大臣賞(2019年)——沖縄県初の最優秀賞

2019年、西崎ニュータウン自治会自主防災会は「防災まちづくり大賞」の最高位である総務大臣賞を受賞した。沖縄県からの受賞は、これが初めてだった。

審査では、実際に現地調査も行われた。古我知さんが訓練の内容や活動状況を説明すると、審査員は「こんなことをやっているのか」と驚いたという。評価のポイントとなったのは、2つの独自の取り組みだった。1つは、避難訓練の後に炊き出しや催しを組み合わせ、住民が飽きずに継続参加できる仕組みを作ったこと。もう1つは、要配慮者のために民間アパートと独自の避難協定を締結したこと。行政指定の避難場所に頼らず、自分たちの手で「届く距離」に逃げ場所を確保するという発想は、全国的にも珍しい取り組みだった。

受賞を知った瞬間を、古我知さんはこう振り返る。「インターネットで発表を見ていたんですが、下の方から探していたら無いもんだから、『あ、今回も無いんだな』と思っていたら、上位にあるんです。もうびっくり仰天でした」。

防災功労者 内閣総理大臣表彰(2019年)——同年のダブル受賞

総務大臣賞の衝撃がまだ冷めないうちに、もう1つの知らせが届いた。防災功労者として、内閣総理大臣表彰を同じ2019年に受賞したのだ。

総務大臣賞と内閣総理大臣表彰を同一年に受けた団体は、全国でわずか3例しかないという。もちろん沖縄県では初めてのことだった。「恐れ多い」と古我知さんは語る。

ダブル受賞の影響は大きかった。祝賀会が開かれ、全国から講演依頼が舞い込み、長野県、福岡県、鹿児島県など本土各地から視察研修が相次いだ。活動が広く知られるようになった一方で、「引き締めて、今後も模範になるようにしなければ」という責任感が古我知さんの中で強まった。賞は到達点ではなく、出発点だという認識が、この人の活動の芯にある。

防災士功労賞(2021年)——個人としての評価

2021年には、古我知進個人として防災士功労賞を受賞した。2019年の2つの賞が西崎ニュータウン自治会自主防災会という「組織」への評価だったのに対し、この賞は「個人」の功績を認めるものだ。受賞当時までに積み重ねてきた講習や指導の実績、そして消防学校への研修受け入れの継続——組織ではなく「個人」として地域防災に尽くしてきた姿勢が、ここで形になった。

瑞宝双光章(2024年)——国が認めた消防功労の重み

瑞宝双光章の勲記と勲章。那覇市消防局のエンブレムとともに額装されている
瑞宝双光章の勲記と勲章(令和6年11月3日付)。左には那覇市消防局のエンブレムが添えられている

2024年11月、古我知進は瑞宝双光章を受章した。消防功労による叙勲であり、那覇市消防局での39年間の職務と、退職後の地域防災への貢献が国から正式に認められたことを意味する。

同年12月、受章報告で糸満市長を訪ねた古我知さんは、「消防だけでなく、地域の活動も勘案しての表彰だと思っています。これに恥じないように、今後とも糸満市民の生命・身体・財産を微力ながら守っていきたい」と語った。

受賞を知ったときの率直な気持ち

数々の受賞を経てもなお、古我知さんの反応は一貫している。「まさか」「恐れ多い」「びっくり仰天」。総務大臣賞のときはインターネットの発表画面で下位から探していたら上位に自分たちの名前があった。内閣総理大臣表彰は「もういいんですか」という気持ちだった。

けれど、古我知さんが繰り返し強調するのは「私だけの喜びじゃない」ということだ。すべての賞は、西崎ニュータウンの自治会員が訓練に参加し続けた結果であり、行政や消防本部の支援があっての成果だ。個人の勲章を受けた人間が、個人の手柄を語らない。そこに、この人が18年間住民の信頼を集め続けてきた理由がある。


一人の決断が街を変えた|糸満市の防災の今

自主防災組織が1カ所から16カ所に広がった糸満市の軌跡

古我知さんが西崎ニュータウンで自主防災組織を立ち上げたとき、糸満市内にはその1カ所しか存在しなかった。現在、糸満市内の自主防災組織は16カ所に増えている。74の自治会のうち約42%をカバーする計算だ。最も新しい大川区自治会自主防災会は2026年2月に結成されたばかりだ。

16カ所という数字は、全国平均と比べればまだ道半ばだ。しかし、ゼロからのスタートだった糸満市が18年で42%まで到達したことの意味は小さくない。しかも、この数字は一人の元消防士の働きかけから始まっている。

古我知進が果たした「アドバイザー」としての役割

現在、古我知さんは西崎ニュータウン自治会自主防災会の「アドバイザー」という立場で活動している。組織の立ち上げを支援する際には、パワーポイント資料を用いて約1時間かけて丁寧に説明する。自主防災組織の法的根拠、消防法上の位置づけ、防災資機材の整備方法——そして、「これがベストではありませんよ」という前置き。あくまで西崎ニュータウンの事例を参考として示し、各自治会が自分たちに合った形を作れるよう促す姿勢だ。

資金面のアドバイスも重要な役割だ。多くの自治会は「資金がない」という理由で防災資機材の購入を諦めている。しかし古我知さんは、自治会の持ち出しゼロで資機材を揃えてきた。宝くじ助成金、沖縄県の補助金、市の補助金——すべて100%補助のものを探し出して申請してきた。ここまでで約400万円の助成を受けている。

ただし、補助金の獲得には実績が必要だ。訓練や行事を継続していること、表彰を受けていること——日頃の積み重ねが申請の説得力になる。「何もしないところに、はいこれあげますよっていうところじゃないんで」。活動するから資金が得られ、資金が得られるからさらに活動できる。古我知さんが「是非とも組織を立ち上げして、こういうのがあるから申請して買いなさいよ」と他の自治会に勧めるのは、この好循環を自分の目で確認してきたからだ。

備蓄倉庫の前に立つ古我知進さん。倉庫には『自主防災会 備蓄倉庫 西崎ニュータウン自治会』の表記
備蓄倉庫の前に立つ古我知さん。中には車いす、ロープ、ポータブルトイレなどの防災資機材が保管されている

しかし、組織を作ることと、続けることは別の問題だ。古我知さんのもとには、他の自治会から相談の電話が来ることがある。「訓練するたびに人が少なくなってると。じゃあどんな訓練してるんですかと聞いたら、集会所から高台への往復を四、五年繰り返しているだけだと。それじゃ役員も来なくなりますよ」。古我知さんが西崎ニュータウンで実践してきた「飽きさせない訓練」は、こうした現実への答えでもある。炊き出し、子ども向けプログラム、ターゲットを分けた年2回開催——すべて「続ける」ための工夫だった。

2カ所目ができたきっかけは何だったのか

2カ所目の自主防災組織が生まれた最大の要因は、2011年の東日本大震災だった。あの震災が突きつけた現実に、「自分たちの自治会でもやらなくちゃいけない」と危機感を持った自治会が動き出した。古我知さんの知り合いが立ち上げたわけではない。糸満市の自主防災連絡協議会を通じて自然につながり、組織として連携が始まった。1カ所目は一人の元消防士の行動から、2カ所目は震災という現実から。広がり方の起点は異なるが、地域を自分たちで守るという意識が動かした点は共通している。

「自分の地域は自分で守る」を実現しつつある街

瑞宝双光章の受章報告の際、糸満市長は古我知さんにこう語った。「古我知さんが行われた活動で、自主防災組織が市内全域に広がりを見せており、『自分の地域は自分で守る』を実現できる環境が整いつつあります」。

この言葉が示すのは、一人の決断が街の構造を変えたという事実だ。糸満市は今、全国でもトップクラスの防災表彰を複数持つ街になった。消防学校の初任科学生が毎年訪れ、本土からの視察団が学びに来る。西崎ニュータウンの海抜3.2メートルの地で海を前にしながら語る津波のリスクは、教室での座学とはまるで違う。「海に向かっている場所で話す方が、説得力が全然違いますね」と古我知さんは言う。

糸満市消防本部には、ポンプ車1台、救助工作車1台、救急車1台——大規模災害時にこれだけで市内全域をカバーすることは物理的に不可能だ。だからこそ、「自分の命は自分で守る、自分たちの地域は自分たちでしっかり守る」という理念が、掛け声ではなく現実の仕組みとして根づくことが必要だった。16カ所の自主防災組織は、その仕組みの形そのものだ。


古我知進が語る「これから」

沖縄の防災の未来と、糸満市が担える役割

古我知さんの目は、西崎ニュータウンの先を見ている。糸満市の74自治会のうち、自主防災組織があるのは現在16カ所。42%まで来たが、まだ半分以上の自治会には組織がない。

「南海トラフ地震が来る前に、70%、80%の自治会に結成してもらいたい」。南海トラフ地震の発生確率は今後30年以内に高いとされている。その期限を意識しながら、各自治会が日頃から避難訓練、炊き出し訓練、避難所運営訓練を行える状態を目指す。それが古我知さんの具体的な目標だ。

西崎ニュータウンは、沖縄の防災における「モデルケース」なのか。古我知さん自身は「モデルケースではない」と控えめに語る。しかし現実には、本土からも沖縄県内からも、防災訓練のたびにどこかの自治会が視察研修に訪れている。海抜3.2メートル、海を目の前にした場所で語る防災の言葉は、本土からの視察者にも深く響いている。

糸満市がこの役割を担えるのは、行政データや計画書の充実によるものではない。一人の元消防士が18年かけて積み上げた実践と、それに応えてきた住民の意識の変化があるからだ。

「受章を機に、さらに活動を続けていく」

瑞宝双光章を受章した古我知さんは、市長への報告の席でこう語った。「これに恥じないようにして、今後とも糸満市民の生命・身体・財産を微力ながら守っていきたい」。

「私も長くはできませんので」と古我知さんは言う。だからこそ、次の世代への種まきを急いでいる。今年から訓練のターゲットを子どもに移し始めた。先週の土曜日も子ども中心の訓練を行い、夏祭りも子ども向けに企画している。いま防災訓練に参加した子どもたちが大人になったとき、彼らが地域防災の担い手になる——その長い時間軸を見据えた方向転換だ。

2024年にはハラール食に配慮した炊き出し訓練も実施した。糸満市に登録されている外国人住民は約2,000人。豚肉を食べない住民がいることを踏まえ、古我知さん自ら発案し、那覇市安里のハラール対応ルー販売店から材料を購入して調理した。「沖縄のカレーと全く味は変わらないです。外国人も非常に喜んで」。炊き出しをきっかけに、外国人住民から「消火訓練をしたい」「CPR(心肺蘇生法)を学びたい」という声が上がるようになったという。

さらに古我知さんが次に見据えているのは、ペットの防災だ。「犬や猫、ペットの防災も考えています」。災害時にペットをどう守るか——飼い主にとっては切実な問題だが、防災訓練のプログラムに組み込んでいる自治会はまだ多くない。ありそうでなかった視点を、古我知さんは当たり前のように口にする。

高齢者、子ども、外国人、そしてペット——誰も取り残さない防災。それは言葉としては簡単だが、実践するには一つひとつの工夫と行動の積み重ねが要る。古我知さんの18年間は、その積み重ねそのものだ。

「自分の命は自分で守る。人が助けると思ったら大間違いだよ」。古我知さんがすっぱく言い続けてきたこの言葉は、突き放す冷たさではなく、何万人を搬送してなお助けられなかった命への悔いから生まれている。だからこそ、住民の耳に届く。


筆者:teruya

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